因果関係を考える猫

2024年2月某日

うとうとと聞いていたベランダの柵にあたる水滴の音が消えて、雨が止んだのだと思った。夫から帰宅命令が出たから帰る旨の連絡が来て、体を起こした。いつもより空気がひんやりしている。窓の外を見ると、いつの間にか風景を埋め尽くすような雪が降っていた。向かいのアパートの屋根もうっすらと白くなっている。

帰ってきた夫と一緒に昼ごはんを食べる。猫は雪が降っていることに気づいていないようで、ごろごろと夫に甘えて膝に乗ったり、撫でをせがんだりしている。「雪見たことあるんかなあ」と言ったら、夫が猫を抱っこして窓の外を見せてあげた。猫は上から下に落ちる物体を目で一生懸命に追って、エアコンから出ているのか?という顔をした。その姿が可愛くて、「因果関係を考える猫なの〜賢いね〜」と言って褒めて額を撫でた。

相対的な自分の大きさ

2024年2月某日

今週は部屋の中から出ていなかった。通販で頼んでいたものがポストに投函されたとメールが届いていたので外に出る。ぬるい夜だった。アパートの隣の藪がざわりと音を立てて揺れる音を聞いて「広いなあ」と思った。

部屋にいる時は自分の大きさが部屋に対して大きくて、自分の辛いことや苦しいこと、自分のことばかりを考えてしまう。相対的な自分の大きさが大きくなるからのように思う。

最近読んだ坂口恭平著「自分の薬をつくる」という本の中で、画家デイヴィット・ホックニーの『自分に深刻になるな、作品に深刻になれ』という言葉を引用されていた。また、「死ぬまで生きる日記」の著者である土門蘭さんのXのポストでも『自分に関して深刻にならないということを最近大事にしている』という言葉に出会った。自分に深刻にならないって、今年の私のテーマな気がする。自分に深刻にならないためには、相対的な自分の大きさを小さくする、そういう場に行くことが必要だなと思った。

 

2024年2月某日

1週間ぶりに朝に体を起こした。5時くらいに野良猫の喧嘩の声で目が覚めて、それから寝付けず、横になって7時半くらいまで過ごす。それから夫の出勤と合わせて家を出た。

 

駅前のスーパーに併設しているパン屋が空いていたので、朝ごはんを食べる。パリという名のつくパン屋だから、ヨーロッパをイメージしたようなオルガン音楽が流れていて、優雅というより少し愉快でテーマパークのレストランのようだった。ブラインドから少しだけ日が差し込む。朝の光がとても好きなのに、どうして毎日憂鬱に目を覚ますんだろ、と思う。でも、逆にいうと、毎日憂鬱だけれど、朝の光がとても好きだ。

便利な布団を着ている人間

2024年1月某日

大きな犬がプリントされたビッグシルエットのスウェットを着ていると、猫の距離感が近くなる。仰向けに寝転んでいると、ずんずんと近寄ってきて、スウェットのお腹の部分を前足で掻いて、スウェットの中に入らせてほしいと言う。裾を少しまくると、そのままスウェットの中に入って寝転ぶ。温かくて可愛い。「今日の人間は便利な布団を着てますなあ」と思っているのだろうか。

 

キャベツとか、もやしとか少し多めに乗せたサッポロ一番塩ラーメンが食べたいなと思っていた。スーパーに行った時に袋麺のコーナーに立ち寄る。すると期間限定だろうか、ポケモンとコラボし、私の大好きなヌオーがプリントされたとんこつ塩味があった。お目当ての塩味はいつもと同じパッケージだ。ヌオーのプリントされたとんこつ塩味を手に取ろうとする。でも、うまかっちゃんが家にはまだいくつかあるので、とんこつ塩味は豚骨がかぶって嫌だな、と悩む。悩みに悩んでヌオーのとんこつ塩味を最終的に買った。パッケージだけやと言われればそれまでだけれど、推しのグッズ売り上げを伸ばしたいと思うアイドルオタクの発想なのかもしれない。小学生の頃から相棒は君に決めている。

自信はないけれど、自信があるように歩けること

2024年1月某日

宇多田ヒカルの曲って魂だけの存在になって、誰かを見守るみたいに愛を歌っている感じがする。でも、魂だけの存在で肉体がないかと言われるとそうではなくて、歌詞に出てくる生活感だったり肉体だったりで、そういう愛も確かにあったよなって少しずつ体のことを思い出す感じ。それが切なくて好きだ。特にStay Goldを聴きながら思う。

 

散歩をしていると、おじいさんに道を聞かれた。Googleマップで調べて、歩いて1時間くらいかかるところに行きたいというので、時間がかかりそうな旨を伝えるが、それは問題ないという。Googleマップを見ながらぐるっとその場を一周回転して方角を確認してから、曲がるべき交差点を伝える。おじいさんとは反対方向に歩く。別れてから、ちゃんと辿り着けるか不安になってくる。

 

人に道をよく聞かれるのは、話しかけやすい見た目だからかと思っていたけれど、違うかもしれない。今日はイヤホンをして、調光レンズでサングラス仕様だったのに、他に人もいたのに、ピンポイントで話しかけられた。いつも、道がわからない時はとりあえず歩くかって心持ちで歩いて、間違っていたから「違うかった」って言う。そうすると夫に「自信満々に歩いてたからついて行ってしまった」ってよく驚かれるのだけれど、外から見ると、自分は普段、自信満々に歩いているようなのだ。もしかしたら、これが道を聞かれる所以なのかもしれない。自信はないけれど、自信があるように歩けること。

 

とても長く休んでいるおかげで、今まで気づかなかったことに気づいたこともあって、責任っていうものを全て自分の物語で背負うことだと思っていたけれど、それは少しやりすぎかもしれないってことだった。相手の言葉を受けて、全部、自分の物語の中で解決する。相手の物語の中で解決することは望まないし、なんか怖い。自分の中に答えがあるから、ほとんどの共同作業が茶番になる。全部委ねるのはもちろん違うけれど、ちょっとやりすぎちゃう、失礼やし、と思う。相手の物語の中をぐるっと巡って出てくる言葉を待つことをちゃんとしたい。

2024年1月某日

夫と少し夜更かしをして、「明日、朝、起きれたらCOCOSのモーニング行こ」という、あ、これ、多分眠たくて結局行かへんやつや、とお互い感じながらする約束して電気を消した。それから、朝方まで眠れず、眠ることを諦めた頃に眠りについた。8時にセットしていた目覚ましで3割ほど目を覚まし、その後少し大きめの地震で7割ほど目を覚ます。少し驚いている猫を宥めながら、「どうする?諦める?」と言い合い、モーニングは諦めた。せっかく起きたし、体を起こさな、と思っていると、またスッと眠りの世界に入る。昆布を麺状に切って出汁を取ろうとして、なぜかパスタを茹でてしまい、リカバリーするためにその中に昆布を切って入れようとする夢を見た。出汁を取れないまま、9割目を覚まして体を起こすと、もう12時をまわっていた。

 

2024年1月某日

映画「PERFECT DAYS」を観に行く。他人の世界と交わることにより乱される自分の世界を保つことの難しさ、だが、崩れることによって楽しいことやうれしいこともあるなあとも思う。私の生活はもっと不安定で、同じ場所に物を置くことができないから、物を乱さず同じ場所に置いて、歯を磨いて植物の水をあげる繰り返される日常シーンが、それだけで美しい映像だった。

 

ショッピングモールのレストラン街を一通り歩いて、結局フードコートのリンガーハットでちゃんぽんを食べた。10年くらい前、5日間にわたって38度の熱が続き、それが引いた後、どうしてもちゃんぽんが無性に食べたくなって、それからだんだんと好きになっていた。自分でご飯を作るようになってからは、あのたくさんの具材を下準備する手間を考えるだけでありがたい食べ物になった。なんとなく、母親世代もちゃんぽんが好きな人が多い気がしている。みんなどこかしらのタイミングで、ちゃんぽんが好きになるタイミングがあって、それが、私はあのよくわからない高熱だったのかもしれない、と思った。

 

202401某日

タピオカを噛み潰したい、という欲求に駆られ、最寄りのゴンチャに向かった。タピオカ好きのようだが、タピオカドリンクは2度ほどしか飲んだことがない。ゴンチャに至っては初めてだ。ほうじ茶ミルクティーのSサイズを氷少なめ、甘さ少なめで頼む。おいしい。ホットであのタピオカのもちもちっとした食感を味わえるか不安だったので、この寒い時期だが冷たいものにして正解だった。ゴンチャではタピオカのことをパールというのはなぜだろう。ブランドイメージにタピオカという音は反するのだろうか。今回、店頭のセルフオーダーだったからよかったけれど、パール追加で、という方がなんだか気恥ずかしい。みんなもタピオカ追加で、って言ってるんじゃないか、と疑心暗鬼になった。

 

202401某日

厄除けのために川崎大師に行く。門をくぐると境内はこれまで見たことがない量の出店が並んでいた。行き交う人の間分を開けて左右に出店が出ている。出店と人を潜り抜けて本殿に向かい、たどり着いたのは不動堂だった。後からわかったが、大山門ではなく不動門から境内に入っていたようだ。お不動様にお参りし、本堂を探す。出店も人も多く、本堂の位置がわからない。迷いながら本堂を見つけ出し、手を合わせる。厄除けの受付を探すと、ちょうど「14時からの護摩行の受付はもうすぐ締め切ります。お急ぎください」という放送があり、申し込みを受け付ける場所を発見した。窓口が10個くらいあり、次々に人々が申し込みをしていく。考えていたよりもずっと規模が多く、どのくらい時間がかかってしまうのだろうと怯えながら、祈祷を受けるために大本堂に戻った。

ギリギリの時間だったため、たくさんの人がすでに本堂に集まって座っており、隙間がほとんどない。お坊さんたちが人を寄せて寄せて隙間を作っては案内し、新しく人を座らせる。私もどこかから作られた隙間に案内されて、正座で座る。いつから始まったのか、お経がもうあがっている。お経は複数人であげているため、今まで聞いたもののなかで一番迫力を感じた。厄の塊のような人々に太刀打ちするには迫力が必要なのだろう。祈祷が終わると、ご本尊にお参りをし、木札を受け取る。

厄除け祈祷という一大イベントが終了し、おみくじを引くと小吉だった。言葉が古めの難しいタイプのおみくじだったのでいいように解釈している節もあるが、不誠実な行いをすると良くない、きちんとすれば幸あるぞ、ということだった。誠実に過ごしたいと思う。

2023年の暮れ

普段、身支度をしながら帰省の荷物を考えたり、新幹線でやりたいことを考えたり、どんなせいろを買うか考える。なんなら、身支度をしながらお店のサイトをみてどのせいろを買うか検討する。そしてもっといい方法があるのではないか、いい店があるのではないか、と検討し続けるだろう。これはこれで役に立つのだが、そのせいか常に疲れており、実際に体調を崩しているので、もっといいものを、を追い求める対象を限定していく必要があると思っている。

 

今日は身支度中に余計なことをせず、バスに乗る。バスでも行き先の情報も調べすぎないように注意した。バスに乗って、すっきりして穏やかだな、と感じた。

 

お粥屋に着くと、2人1組のお客さんが外で待っていた。後ろに並ぶと、また2人1組のお客さんがきて、2人、1人、2人という体制になった。それからお店の人に案内され、大きな円卓をこの体制で囲むことになった。

本当は平日セットを頼みたかった(これは昨晩調べてしまった)が、今日は平日扱いにならず年末扱いのようで注文できなかった。しかたがないので、白身魚、つぶ貝、イカの入ったさんせん粥にした。円卓で一番乗りで注文する。レギュラーサイズが食べられるか心配だったので、少し少なめのサイズで注文すると、その注文に同じ円卓の人たちもびびってしまったのか、皆が少なめを注文した。1人で来ているから玄人に見えるかもしれないが、私も初めて来た人間だ。私はレギュラーサイズでちょうどよかった。皆も足りていたら嬉しい。

中華料理屋では杏仁豆腐を食べ、好みだったか記録する習性があるのだけれど、円卓体制に緊張して杏仁豆腐を頼むのを忘れてしまった。

 

食べ終わってから、せいろが売っているお店に向かう。店員さんに聞いて選ぼうと思ったら、すでに聞いているお客さんがいて、会話を聞いてしまっていたので、それを元に竹のせいろを選んだ。せいろの身は二段でいいのだが、アウトレットに二段の値段より安く三段のものがあり、多い分にはいいだろうとお得さに惹かれてアウトレットのものを購入した。お店を出てからこれでよかったのだろうか、と心配になる。この杞憂らしき不安もいつものことなので、使わないとわからないし、と自分に言い聞かせることにした。

 

中華街は平日だが人が多かった。よく考えたら、学校はもう冬休みかもしれない。仕事も早めに納めているひともいるのだろう。今度はド平日に行ってみたい。